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す〜ごい男がいたもんだ〜 |
歴史的に名前を残すことができない偉人もいるものだな・・・と最近、感銘を受けた人がいます。名前は根本博。ウィキペディアにも出てきます。こちらのyoutube 私の本当に個人的な感想ですが、昭和の歴史において、山本五十六さんよりも今日の日本人に間接的に影響を及ぼしていると思います。もし、司馬遼太郎が彼のことを知っていれば、小説を書いたのではないかと思います。ただし、彼の偉業は、長い間、歴史から抹消されていました。 根本 博(ねもと ひろし、1891年(明治24年)6月6日 - 1966年(昭和41年)5月24日)は、日本陸軍の軍人で陸軍中将功三級。福島県出身。仙台陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校卒、陸士23期。陸大34期。終戦時にモンゴルで、天皇陛下の終戦の玉音放送を聞く。 根本は、ロシアに捕虜にされたら何をされるかわからないことを察知し、「民間人を守り通すことも兵士の役割」として、大本営、天皇陛下の命を無視し、戦争が終わった後も民間人を守り通します。すごい白兵戦であったと聞いています。戦争を知らない私は表現できません。命をかけて守った民間人4万人。なんという偉業でしょう。しかも日本に戻れば、命令を無視した犯罪人として、裁かれることは目に見えていますが、「民間人を守り、そして、自分が裁かれるのであれば、本望」と戦い続けます。 それだけでも、普通の兵士ではありません。ただ、彼の物語はそれだけでは終わりません。今度は、台湾に密航を企てます。蒋介石を救うために。 しかしながら、モンゴルでの戦いも、台湾での戦いも、歴史的には、抹殺されるべきことです。特に台湾での戦いは、日本側も台湾側でも日本人が台湾を救ったとは誰が表現できるでしょう。彼自身もそんなことは望んでいなかったのでしょう。単に恩義に命をかけて報いようとしただけ。しかも、北京で会うまでは、日本と中国で敵どうしだったにもかかわらず・・・ 金門島の戦い以降、台湾から根本博が帰ってくるのは、飛行機でした。当時の写真が残っています。タラップを降りる彼は、「釣竿」を持っていました。あたかも釣りに行っていただけ・・・・本当に心憎いほどの本物の英雄です。 戦場は、私には当然わかりません。人を殺し合う場所など、想像もつきません。そのような戦地においても人を済う心、喩え一度は敵であっても恩義を返す心があることが不思議にすら感じる物語でした |
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